荷風の読み方は実にさまざま。いろんな読み方があり、人それぞれに荷風が好きな理由が異なる。著者は荷風を明治以来の「ニッポンシステムへの反抗児」として捉えている。この捉え方には同感。ニッポンの政治家、役人、軍人、新聞記者、彼らの宣伝誘導によって踊らされる大衆と、大政翼賛を子宮的に叫ぶ奥さま・女学生などの良妻賢母連中と、イエ制度と親戚づきあい。何れも荷風が蛇蝎の如く嫌った対象である。でも荷風にはシステムを変える力はもとよりない。荷風の逃げ場は、過ぎ去った江戸文化と社会からのはみ出しものである底辺の女性となった。八重次にしても芸者というアウトローを自ら選択し自立していった女性(後には文化功労者にまで成る)。両者は似たもの同士だったのである。
平成のニッポンでは、戦前への先祖帰り現象が見られる。荷風が嫌った勢力がまたぞろのさばりはじめている。だからこそ、いま荷風はこういった視点で読み直されるべきだと思う。
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